Gibson

※Privatterから移行

 

”ギブソン”と出会ったのは、去年の9月のことだった。
新入生でごった返すキャンパスは、ただでさえ虫の居所が悪い僕をさらに苛々させる。苛立ちの理由は、1年次で取っておくべき必修単位をひとつだけ落としてしまい、新入生に混じって再履修する羽目になったこと。講義はすべて出ていたし、居眠りなんかもせず真面目に聞いていたのに、最後のレポートの提出期限を1日間違っていたのだ。期限の1日後に。教授に直談判しに行ったけれど、例外は認めないと突き返され、僕はこの憎き1単位のために月曜日の早起きを強いられることになった。

広い講義室とはいえ、学年違いの中に一人ぽつんと混じるのはなかなかに居心地が悪い。探せば同じ学年の奴もいるだろうけれど、あいにく僕はそこまでの行動力とコミュニケーション能力を持ち合わせていなかった。講義室の隅で、僕はゆるく弧をえがいて並ぶ座席の中から、窓際の一番日当たりの良い場所を選んだ。なんせ、最後のレポートをしくじったこと以外は(出席率は)優秀な生徒だったのだから、2周目まで良い子はやっていられない。僕はこの席を今期の寝床にすることを決めた。

大方の学生が席に着き、そろそろ教授がやって来ようかというタイミングで、ガラリと前方のドアが開いた。そこに立っていたのは、一人の学生だった。
急いできたのだろうか、少し息が上がっているように見える。学生たちの注目を一斉に浴びた彼は、焦った様子で、ここからでも分かる大きな目を右に左にきょろきょろさせている。後方のドアならダメージはかなり軽減されただろうに。さらに最悪なことに、講義室の座席はほぼ埋まっている。僕の隣を除いて。あたふたする彼にだけ分かるくらいの高さで左手を上げ、“空いてるよ”と目線で促すと、彼は心底ほっとした様子で、机と机の間の階段を小走りで駆け上がり、僕の隣に座った。近くでよく見ると、まるで教科書で見た彫刻みたいにきれいな顔をした男だった。

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講義が終わり、学生たちがざわめきだす。
僕は適度な睡眠と引き換えに凝り固まった背筋をぐっと伸ばした。2限目は空いて、3限目の講義までをどう過ごそうかと考えていると、隣の彼はたどたどしい口調で「良ければ、連絡先を交換してほしい」と言った。フランス訛りだろうか。
「留学してきたばかりで、わからないことが多いんだ。君はとても親切だ。友達になってもらえたら、とても嬉しい」眉は八の字に下がり、不安そうに僕の返事を待っている。断れるわけがなかった。僕はポケットからスマートフォンを取り出し、メッセンジャーアプリを立ち上げた。

彼の名前は”フィリップ・ユーゴ・ギレ”と言った。
フランスからの留学生で、この新学期から編入してきたとのことだった。専攻は建築だけれど、彼にもいくつかの必修単位があり、この講義もその一つだと言う。僕が再履修することになった経緯を(教授がむかつくという点もおりまぜながら)話すと、「それはとても残念だったね。君は努力したのに」なんて言うから、笑えるエピソードを提供したつもりだった僕は、恥ずかしさで死ねると思った。

それから、今思い返せばかなり失礼だし、自分でもなんでそんなことを言ったんだろうと思うんだけれど、僕が「”フィリップ”も良いけど、なんだか”ギブソン”って感じもする」と言ったら、彼は「君がそう思うなら、そう呼んで」と笑ったので、僕は彼を”ギブソン”と呼ぶようになった。

次の講義も一緒に座る約束をした僕たちは、講義以外でも少しずつ会う時間が増えていった。彼はフランス訛りも相まってまだ会話に自信がないようだったけれど、僕もどちらかといえば無口な方だから特に問題はなかった。むしろ会話が無くても、課題で出された本を読んだり、レポートを書いたり、ボーっとしながらコーヒーを飲んだり、彼の隣はとても心地が良かったのだ。

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「トミー、今日は帰りに本屋に寄りたい」

気付けば僕たちが出会った講義も残すところあと数回となり、僕たちはランチと講義の空き時間、それから帰り道まで一緒にいるくらいには仲の良い友達になっていた。自分でも驚いてる。
「いいよ。何を買うの?」
「月曜の1限、最後のレポートを書くのに参考になる本が欲しくて」
「あーだったら僕、持ってるよ。去年買ったから。良かったらあげるよ。あのレポート書く以外に読まないし」
「本当に?それはとても助かるよ。でも、トミーのレポートは?」
「僕は去年のをそのまま出すよ。まだデータで残ってるし。教授は見てないからね」
「そうか。それじゃあ、もらって良いかな」
「もちろん。それじゃあ、うちに取りに来る?」
僕の提案に、彼はうなずく。
なら早速、と二人で歩きだして、僕は誰かを家に呼ぶのは初めてだということに気付いた。

「適当に座ってよ」
彼は何がめずらしいのか、僕の部屋をきょろきょろと見回している。ありきたりなフラットだし、最低限のものしかないつまらない部屋だ。僕は本棚から件の本を取り出し、ソファに座る彼に手渡した。ありがとう、と彼は早速本を読み始める。
僕はコーヒーでも淹れようとキッチンへ向かった。なかなか気に入っているホーローのマグを2つ取り出し、ケトルに水を入れて火にかける。お湯が沸くまで手持無沙汰で、ふと彼の方を見た僕は、突然心臓を鷲づかみされたような感覚に襲われた。僕の部屋に、僕の部屋で、僕のソファにギブソンがいる。それだけのことに、僕は今激しく動揺しているのだ。いつも見ている横顔が、真剣な眼差しでページを追っている。僕より大きいであろう骨ばった指が、ぺらり、ぺらりと一定の間隔でページをめくっていく。本に夢中で少しだけ丸まった広い背中に心がざわつく。集中しているのか、僕の視線には気付かない。ずっと見ていたいような、でも、ずっと見ていられないような。僕は今、とても緊張してい る。

ケトルのふたがカタカタと鳴り、僕はハッとする。もう少しで吹きこぼれるところだった。汗ばんでしまった手でインスタントコーヒーの瓶をとり、適当な量をマグに振り入れる。僕のはお湯を注ぐだけ。彼の分は、最後にミルクを少し入れた。両手にひとつずつマグを持って、彼の横に座る。ソファの前のローテーブルにマグを置くと、彼はやっと本から顔をあげて、「ありがとう。いただきます」と本を横に置き、マグを手に取った。
僕はなんだか見ていられなくて、自分のマグの中をじっと見つめた。うっすらとうつる僕の顔は、へんに強張っていて最悪だ。彼はマグを置くと、また読書を再開した。

吸い込まれそうなほど印象的な目は、今は少し伏せられている。すっと通った鼻筋に、形の良い耳。顎から首にかけてのライン。いつも見ているはずなのに、そわそわする。
さっきと同じペースでページをめくる指、きれいに切りそろえられた爪。あ、この手に触れたいな、と思ったときには、僕の指は彼の左手に触れていた。
彼はピクリと肩を揺らしてこちらを見る。どうしたの?という目だ。僕はそのまま、ゆっくりと指先をすべらせる。手の甲をなぞって、手首へ。手首にたどり着いたら、今度は指先を手首の内側へすべらせて、手のひらの付け根のくぼみを撫でた。目線だけ彼の方に向けると、大きな目をさらに見開いて、僕を見つめている。何が起こっているか分からない、という様子だ。一方僕は、彼の手に触れただけで心臓がバクバクしているし、呼吸が上がる。僕だって、何が起こっているのか分からない。

彼の形のいい唇が何かを言おうと少し開いた瞬間、僕はもうダメだった。彼の膝に手を置いて腰を浮かせ、キスをした。唇を押しあてるだけのキス。触れたのはほんの数秒で、すぐに後悔が押し寄せる。もっとうまくやれよ、とか。そもそもなんでキスしてるんだ、とか。もう友達ではいられない、とか。まともに彼の顔を見れないし、今すぐここから逃げ出したい。

ソファがぐっと沈む。彼が近づく気配がして、僕の身体が強張る。言葉はないけれど、こっちを見て、と言われているのがわかる。でも、僕にはできない。もう一度ソファが沈み込んで、彼が僕の顔を覗き込んだ。目が合って、ああやっぱり彫刻みたいにきれいな顔だ、と思ったときには、今度は僕がキスをされていた。僕がしたみたいに押し当てるだけのキスじゃなくて、ぴったりとかみ合うようなキス。何度か角度を変えて、そのまま下唇を軽く彼の唇で挟まれる。唇の間を舌でなぞられて、思わず少し開いてしまったところにちょっとだけ舌を差し込まれて、前歯の先と上唇を舐められた。ゆっくりと彼の唇が離れていく。キスのせいか少し赤くなった唇は、とてもいやらしく見えた。

まるでエサを目の前にしておあずけされている犬みたいに、短く荒い息を出しながら僕は彼のキスの続きを待つ。舌を出して、ご褒美を待つ情けない獣だ。
彼は僕の頬に両手をそえると、僕の舌の先から上へぬるりと舐め上げた。背筋がゾクゾクする。泣きそうだ。そのまま舌をゆっくりと吸われて、僕は必死に彼の両腕にしがみつく。

キスにも相性があるなら、君は僕の運命の相手なんじゃないか?もっとしてほしくて、たまらなくなる。君はいつ、誰とこんなキスを覚えたんだろう。僕は知らない。20年程度の僕の人生に、これほど震えるような気持ちの良いキスは無かった。こんなキスを知ってしまったら、僕はこれからどうすればいいんだろう。きっと、この先誰とキスをしても、今日のこの瞬間と比べてしまうんだ。

彼の厚みのある舌が、僕の咥内をくまなく舐め回す。上顎、下唇の裏側、内頬、歯列、どこもかしこも気持ちいい。僕の中を動き回る舌に、思考が追いつかない。僕もなんとか応えたいけれど、彼はそうさせてくれない。頬に添えられていた指が僕の左耳のピアスホールに触れて、つま先から頭のてっぺんまでしびれるような感覚に、僕はとうとう彼にすべてを投げ出した。

出会ってから今日まで、僕たちは不思議と言葉を交わさなくても、何となくお互いの考えていることが理解できた。僕にはそれがとても居心地が良かったけれど、でも、今この時だけは、言葉が必要だ。
「君が好きなんだ」
かすれてひとり言みたいになってしまった僕の告白は、次のキスに飲み込まれた。