※本編後 ファイ視点
我ながら随分と荒みきった生活だと、ファイは部屋の中をぐるりと見渡し、どこか冷静に考える。
もっと金払いのいい仕事を求めて、世話になったチャイニーズレストランは辞めてしまった。
忙しくないわけではなかったが、気の良い人間が多かったから嫌だと感じたことはほとんどない。
電話を自由に使えて(ただ黙認されていただけで、本当のところはどうかわからないが)、余った食材でまかないも作れる。こうして振り返ってみると、かなり恵まれた環境であったと言えるだろう。
けれども、ウィンと別れたことでその必要はなくなった。彼が一人部屋で寂しい思いをしていないかと電話を占領することも、腹を空かしてベッドで丸くなっているところを想像して中華鍋を振ることもない。
そして、自分のようなくたびれた年上の男をやけに慕ってくれたチャンもまた、世界の果てにある灯台を目指して旅立っていった。
しばらくはなんでもないように装って日々を過ごしていたが、自分が思っていたよりもこの街に多くの思い出が生まれたこと、それがあちこちに根を張りはじめたことに気付いて、これはまずいとファイは思った。
飯を食うことも、シャワーも、睡眠も、すべてが義務的で機械的になってしまった。
取り返しのつかないところまで――もう、自分がどの地点にいるのかもわからない。
このアパートを引き払い、不要なものはすべて処分して、少ない荷物だけ。
ここには、この街には思い出が多すぎる。
一刻も早く金を貯めて、香港へ帰ろう。
そうでないと、虚無感に押し潰されそうだとファイは細く、そして深いため息をつく。
明けない夜などないことは知っているが、この異国の地にたった一人で取り残される不安をまた思い出してしまった。
大丈夫だ、なんとかなると自分自身に言い聞かせて、この生活にも慣れたつもりでいたが、それは自分の思い過ごしだったのか。
それとも――ファイは手を伸ばした先の煙草が空であることに気付き、くしゃりと手の中で握りつぶす。
認めたくはないが、もう認めざるを得ない。
チャンの存在に自分がどれほど助けられていたのか、チャンがいなくなってはじめて理解した。
いや、本当はずっと前からわかっていた。
チャンにまかないを食わせたあの夜から。
屈託のない笑顔で、心地よい距離感で。
彼はこちらの事情をなんとなく察していたかもしれないが、だからといって探りを入れることもなかった。
ただ、ファイのことを親しみをこめて先輩と呼び、今までに旅をした国と、街と、人の話を聞かせてくれた。
今思えば、その時間がどれほど尊いものだったかと、ファイはその事実をまざまざと突きつけられる。
現実は、荷造りで空っぽになりつつある部屋と、それに比例してぽっかりと穴があいたままの胸の奥。
夜の冷たい風にカーテンがはためいて、ファイはぶるりと身体を震わせた。
新しい仕事は、精肉工場で冷凍された肉塊をひたすら運ぶ仕事だ。
夜勤で仕事終わりにはシャワーが使えるらしいが、それはつまり、それほどきついということだ。
氷点下の大きな冷蔵庫の中で、血生臭いにおいを染み込ませながらの肉体労働。
休憩時間にサッカーボールを蹴るなんて余裕はないだろう。
でも、そのくらい過酷な方がきっとよく眠れる。
自分の人生には似つかわしくない、きらきらと眩しい思い出にとらわれなくてすむはずだ。
――もう、彼には会うこともないのだから。
ここで生まれた思い出は、ここにすべておいていく。
ファイはそう心に決め、必要最低限のものだけを詰め込むと、くたびれたボストンバッグのジッパーを締めた。