2022.10.01 さわマル展示SS

※本編後 チャン→ファイ→チャン視点

 

この世界の果てにある灯台は、想像していたよりもずっと小さかった。

灯台に登り、潮風と波の音に包まれながら、ポケットから取り出したカセットテープレコーダーの再生ボタンを押す。
世界の果てを見にゆくはずの旅は、いつのまにか“これ”が目的になっていた。

ここまでの道中、ふとした瞬間にこのテープがどんな音を閉じ込めているのか気になってはソワソワしたけれど、もしここで聞いてしまったら先輩との約束を破ってしまうような気がして、僕はテープをにぎったままじっと耐えた。

再生ボタンを押してすぐ、変な――泣き声のような音が数秒だけ聴こえて、その後はじりじりとテープが巻き取られる無機質な音だけが響いた。
録音されていたのは、たったそれだけ。
先輩の録音ミスかと思ったけれど、今ここで確かめる方法などない。
この世界の果てで、僕はしばらく海と空の境目を見つめたまま、ぼんやりと立ち尽くしていた。

あの夜、僕がそばにいると先輩が喋りにくいだろうからって、テーブルから離れてしまったことを今さら後悔する。そして、僕はここで先輩に会いたかったのかと気付いて、もっともっと後悔した。
代わり映えのしない景色が永遠に続く長距離バスに揺られながら、何度も何度もテープを巻き戻す。ガタガタと荒れた道を進むバスの中でも、かすかに聴こえる泣き声のような音は、不思議とこの耳でしっかりととらえられた。

先輩はいつも寂しそうな音を鳴らして、でも、その寂しい音の理由を打ち明けてはくれない。おそらくその理由は電話の向こうの恋人のことで、それは誰にも言えない先輩の秘密なんだろう。

僕だったら、寂しくなるような恋愛はしたくない。寂しいよりも、楽しいほうがずっといい。
なぜ先輩は、そんなに寂しい音を纏ってもそのままでいようとするんだろうか。
――だから提案してみたんだ。僕が先輩の悩みを、この世界の果てで捨ててくると。

灯台からまっすぐ空港を目指すつもりだったけれど、予定を変更してブエノスアイレスに立ち寄ることにした。
そもそも計画なんてあってないような自由気ままな旅なのだから、台北に戻るのが数日ずれたって構わない。
とにかく僕は、先輩に会ってテープの真相を聞きたかった。
録音ミスだったのか、いざ何か喋ろうと思ったら照れくさくなったのか。
それともあの時、本当に泣いていたのか。

ブエノスアイレスに、先輩はいなかった。

まず最初に、僕は先輩が住んでいたアパートを訪ねた。
以前一度だけ、先輩が一人では歩けないほど酔っ払ってしまった時にここまで送ったことがある。こじんまりとして、少しじめじめとした雰囲気で、けれどもなぜか懐かしい気持ちになるような、そんなアパートだ。
はやる気持ちを抑えてドアを開けると、先輩の部屋は備え付けの家具だけを残して、あとは空っぽになっていた。
大家に訊いてみても、しばらく前に荷物をまとめて出ていったとだけ。その後の足取りはまったくわからなかった。アパートの周辺もぐるりと歩いて見たけれど、先輩の影すら残っていない。たしかに先輩はここにいたはずなのに、まるですべてが幻だったみたいだ。

先輩との思い出が詰まったこの土地で、僕は途方に暮れることになった。

夜の酒場は賑やかな音に溢れているのに、耳の奥には灯台で聞いた潮風と波と、ほんの数秒の泣き声のような音がこびりついて、心がずっとざわついてる。ダンスの誘いも断って、ただちびちびとアルコールを腹に送るだけ。
先輩がいないこの街に、拠り所のなさを感じる。あてのない旅って、こういうものだったんだっけ。
これが寂しいって感情だということに、できれば気付きたくなかった。

一晩ブエノスアイレスで過ごし、空港へ向かう前に先輩と働いていたレストランに顔を出した。気のいい仲間たちは変わらず僕を明るく迎えてくれたし、別れを惜しんでくれたけれど、やっぱり先輩の行方はわからずじまいだった。先輩は店を辞める時、詳しいことは何も話さなかったようで、皆口々に新しい仕事を見つけたんだろうと言うが、たしかな情報は何一つ得られなかった。きっとあいつも元気にしているさと、叩かれた肩がじんとする。
テイクアウトの容器に入れてもらったまかないを手に、かつての仲間たちに見送られながら僕は店を後にした。

空港のベンチでまかないを食べながら、あの夜のことを思い出す。
厨房で先輩がまかないを作ってくれた夜。ゆっくり食べろと言われたのに、あんまり腹が減っていたものだから、急いで口にかき込んだこと。
先輩が、僕の知らない誰かのために作ったまかないの味。

ブエノスアイレスに来れば必ず会えると思っていたのに、その望みは叶わなかった。
灯台で先輩の悩みを捨ててくるはずだったのに、僕が悩みを持ち帰ってくることになるなんて。ため息をつくと、ちょうど搭乗のアナウンスが響いた。
いよいよ、僕の旅が終わる。

先輩、どこにいるんですか。
知らない土地で、寂しい音を鳴らしていなければいいのだけれど。

◆◆◆

写真の中のチャンは、俺の記憶の中のチャンと同じ顔をしていた。
あいつがブエノスアイレスを出てそれほど時間が経っていないのだから当たり前だが、少し――心も、物理的な距離も――離れただけで、人は別人のように変わってしまうこともあると俺は知っているから、チャンのあどけない表情に内心ホッとした。

台北を走るモノレールの中で、車窓を流れてゆく街並みとチャンの写真を交互に眺める。

チャンは世界の果てにある灯台で、俺の悩みを捨ててくると言った。
手渡されたテープには結局何も吹き込むことはできなかったが、あいつは空っぽのテープを灯台で聞いたんだろうか。
わざわざあんなところまで行って、中身が無音のテープを片手に海を見つめるチャンを想像して、俺はなんだか申し訳ない気持ちになった。
灯台のおまじないの効果のほどはわからないが、なんとなく、チャンに悩みを吹きこめと促されたあの夜よりも、今は胸のつかえが少し取れたような気持ちだ。

どうせならこのまま、終着駅まで行ってしまおうか。
どこにも寄り道をせずホテルに戻ってしまうには、もったいない夜だ。
この街のどこかにチャンがいるかもしれないし、あいつのことだからもう次の旅に出ているかもしれない。
窓に映るオレンジ色の光が、夕暮れに照らされるチャンの横顔を思い出させる。

会おうと思えば、いつだって会える。
そう願っていれば、きっと。
降りるつもりだった駅を横目に、俺は写真の中のチャンを指で撫でた。

◆◆◆

「あんたの写真がなくなってるのよ」
友人たちの家をふらふらと渡り歩いて、数日ぶりに両親の屋台に顔を出すと、母が皿を洗いながら言った。
「なくなっちゃたの。気付いたら、あんたが写ってる灯台の写真だけ」
ねぇお父さん、と母は洗い終えた皿の水を切り父に問いかける。
「ああ、いつだったかなぁ。お前が帰ってきてすぐだったか。たしか、電話を借りたいって客が来た後だったかな。香港訛りの」
「なんかの拍子に飛んでっちゃったのかしらね」

呑気に会話する両親と対象的に、僕の心臓がドクドクと音を立て始める。
「ちょっと待って、香港訛りの客?」
この台北にはそんな観光客なんて山ほどいるのに、期待で手のひらに汗が滲む。

「そうそう。長いこと南米の方にいて、このあと香港に帰るって言ってたよな」
「うちの息子もこの間アルゼンチンだかどっかから帰ってきたって話したものね」

「……先輩だ」
「なんだ、知り合いか?」

知り合いも何も、僕がいまいちばん会いたい人なんだ。
先輩が台北にいる。
もしかして、僕に会いに来たの?
香港に帰らず、僕のところへ?

「っ、ちょっと出てくる」
「あんた、さっき帰ってきたばっかりなのに!」
「うん、行かなきゃ」

身体が先に動いていた。
先輩がまだ台北にいるのかどうかもわからないのに、あてもなく駆け出す。
もし先輩が見つからないなら、次の旅先は香港だ。
今度こそ会える。
ああ、会いたくてたまらない。

僕の悩みを、あなたの前で捨てさせて。